だから我々は備えなければならない [雑談]
先の記事にも書いたが、現在の世界は混沌を極めつつある。
私のような昭和生まれからすると、平成の時代はその名の通り平らかで安穏とした時代に思える。
まあ、ある日を境に突然世界が変わる、というのは個人の印象は別として物理的にあり得ないので、一般には“それ”が個人の思う閾値を超えた場合に“突然世界が変わった”という印象につながるのかもしれない。
目に見える事や肌に感じる事だけが全ての人には、絶対に理解できない。
理解した気になるのは自由だが。
世界は、そして日本は不安に満ちている(以下略
https://motor-fan.jp/mf/article/42417/
この記事は、今の現実の一端を非常によく表していると思う。
もちろん、漠然とした不安を常に感じている人の感覚の中には、こうした“現実”が含まれている場合もあるだろう。
だから、そういった感性を持ち得る人は備えなければならない。
これからの時代に対して。
備えると言うと、ほとんどの人が守りに徹する事を想像しがちだが。
激動する世界の中において、守りに徹するという選択肢は滅亡を意味する事が多い。
時勢を見て、守りに徹するべき時と、攻めに徹するべき時、或いはその時々でちょうど良いところを進む時など、柔軟な対応をしなければならない。
これは国家単位という想像も難しい話だけではなく、個人の日常生活でも同じだ。
備えるという事は、金や物を蓄える事だけではなく、情報を得る事と、それを活用するための脳みその育成と判断のための“感覚”を鍛えるという事であり、それを元に自分がどのような在り方を、そして行動をすべきなのか、という事でもある。
しかも、情報を得ると言っても自分に都合が良い情報だけでなく都合が悪い(或いは興味のない)情報も区別なく集めなければならない。
そのためにも、言葉では表現出来ない“感覚”の育成が必要だ。
残念な事に、人間の危機意識というものは平時では働かない事が普通で、これはどんな人でも例外は無い。
ならば平時において如何に危機意識を持つのか、という事が重要なのだが、危機意識とは人間の価値観や感情に依拠する部分が大きいだけに、文字通り綱渡りを演じる事になる。
もしそのか細い綱を踏み外す事があれば、それは自らの妄想に囚われ暴走する道に堕ちる以外の未来しか存在しない。
なにしろ正気というものは、客観的に見て正気か狂っているかなどとは無関係なのだから。
結局の所、正しいとか間違っているとか、そういう事も結果でしかわからない。
個人で出来る事は非常に狭い範囲に限られ、だからといって集団になれば大抵破綻する。
こんな世の中で「だから我々は備えなければならない」とは言っても。
出来る事を、出来る範囲でやる。
今私に言える事は、それしかない。
まあ色々考えたところで、無限円環を往くがごとく人は過ちを繰り返すのだろう。
せめて(以下略
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